「アフリカンダンス」って何だろう?
「アフリカンダンス」と聞いてどんな踊りをイメージしますか?「槍持ってジャンプする踊り」?それとも「腰蓑(こしみの)みたいなものをつけて腰をフリフリする踊り」? 「ヒップホップ」は、アフリカ系アメリカ人のダンスだし、「サンバ」はブラジル人のダンスで・・・結局「何がアフリカのダンスだかよくわからない」という人も多いかもしれません。
それもそのはず、アフリカ大陸はユーラシア大陸の次に広い大陸で、そこではさまざまな民族がそれぞれ異なる暮らしをしています。音楽やダンスも多種多様、ダンスのときに使う楽器やリズムももちろん異なっています。
西アフリカ(マリ、ギニア、セネガル等の国々)に住むバンバラ族が、先祖代々守り伝えてきたダンスを、20年前にはじめて日本に紹介したのが、柳田知子さん。柳田さんには、アフリカとの出会い、アフリカのダンスとその背景にあるもの、そしてアフリカへ関ることなどについてお聞きました。
はじまりは「バナナ・ボート」
「バナナ・ボート」は、昭和32年の浜村美智子さんのヒット曲。オリジナルはジャマイカのカリプソで、ハリー・べラフォンテが唄っていました(The
Banana Boat Song/Harry Belafonte/1957/RCA)。音楽好きの両親の影響で、柳田さんが「バナナ・ボート」を聴いたのは6歳の時。そして、6歳にしてこの曲に‘郷愁(きょうしゅう)’を感じたといいます。それがアフリカとのつながりの始まりでした。
「アフリカ系の音楽とダンス」は、柳田さんにとって常に身近な存在。大学で社会学を学んでいる時にも、アフリカ系アメリカ人の先生によるダンスレッスンは続けており、卒業後、一旦(いったん)は日本でジャズダンスを教えはじめたものの、アフリカンダンスへの情熱が消えることはありませんでした。そして、先のアフリカ系アメリカ人の先生の薦めもあって、資金が確保できるとすぐに、米国・カリフォルニア大学のダンス学部へと進学することにしました。
新世界で育まれた心の故郷としてのダンス
「創作・パフォーマンス」としてのダンスを学ぶべく、進学した大学院。しかし6ヶ月が過ぎた頃、卒業に向けた学生同士の熾烈(しれつ)な競争の中で、「本当にこれでよかったのか?」と思い始めます。そんな中でふと覗(のぞ)いた、ある「民族舞踊」のクラス。いつもはクールな先生もつい熱くなってしまう「民族舞踊」。「これだ!」と感じた柳田さんは、様々な所に働きかけを行い、何とかそのテーマを「創作・パフォーマンス」から「舞踊民族学」に変更することに成功しました。
当時の大学院には、ダンスを教えるべくアフリカ各国からやって来た講師がより取り見取りでした。しかし、「舞踊民族学」への理解を深めるため、身近な生活の中のアフリカンダンスを知りたいという気持ちから、アフリカ系アメリカ人コミュニティへと接近しようとした柳田さんは、予想もしなかった抵抗に出会います。それは、アメリカ大陸に奴隷として連れてこられた人々が、大切に育んできた心の故郷に対する守りの姿勢の一端だったのかもしれません。
マスタードラマーとアフリカの智慧
その後、柳田さんは、アフリカ系コミュニティと良好な関係を築きあげ、大学院を卒業し日本に帰国しました。その2年後、再び訪れた米国で、セネガル出身のジンベのマスタードラマー、アブドゥライ・ジャハテ氏(Abdoulaye
Diakite)に出会います。セネガル国立舞踊団の首席ドラマーだった氏は、米国に移って「チェド・セネガリーズ・ダンスカンパニー」を主宰。氏は、マスタードラマーとしてのジンベの演奏技術もさることながら、ジンベのリズムとその歴史、そしてその背景となる西アフリカの歴史についても深い知識を持って、世界中のジンベマスタードラマーから、「ジンベの生き字引」
として尊敬されていました。 氏は「アメリカの生活に困窮(こんきゅう)しても、ジンベを演奏すること、そしてジンベに関る全てのことを、正しく人に教えること」のみに専心し、その姿は、まるで「武士は食わねど高楊枝」といった風情でした。
氏のジンベに関する技術と知識、そして哲学は、スーパーコンピューターでも収容できないような「アフリカの智慧(ちえ)」の宝庫。氏の状況を何とか変えたいという思いを胸に、柳田さんは日本へと帰国しました。
アフリカの可能性
日本に戻った柳田さんは、周りに請われるがままに日本各地で、アフリカンダンスとそれを取り巻くものについて教えるようになります。そして、ほぼ毎年、西アフリカ各国に赴(おもむ)き、現地で音楽とダンスを研究する傍ら、「アフリカの智慧(ちえ)」を継承する方法を模索。2004年には、ついにバンバラ族のジンベとダンスを学ぶための施設である「タンバクンダ合宿所」を設立します。これにより、日本やアフリカだけでなく世界の人々が「アフリカの智慧(ちえ)」を共に分かち合うことが可能となりました。
アフリカに赴(おもむ)く度に自分が気づかなかった枠を意識させられ、その外にある世界を体感するという柳田さん。先の見えない現代の日本にこそ、アフリカの可能性(文字を持たないバンバラ族が持つリズムやダンスの秘めた力)が必要なのではないかと考えています。
柳田さんの「アフリカと関るコツ」は、「細く長く」。長く関ることで、「見えるものだけでなく、見えないものを感じ取る」ことのできる感性が育まれ、その感性をフィルターとして「生きるコツ」を培うことができるのですね。アフリカと関るからには、「受身ではなく主体的に」関って欲しいーというのが、柳田さんのこれからアフリカと関ろうとする人達への願でした。「持続性」「既存とは異なる概念」そして「主体性」は、これからの私たちに間違いなく必要になりそうな要素ですね。
(情報提供:柳田知子、インタビュアー:星野貴子・アフリカ理解プロジェクト)
プロフィール:柳田知子(Tomoko Yanagida) |
舞踊民族学者、ダンスインストラクター。日本に西アフリカの民族舞踊を紹介したパイオニア。カリフォルニア大学(UCLA)大学院ダンス学部卒業。1987年ヴォーカリストでドラマーでもある砂川正和とともに「ドラム&ダンスシアター・ウォークトーク」を主宰。ダンス・ワークショップやレクチャー、パフォーマンスを通して、西アフリカの文化エッセンスである、太鼓とダンスのコミュニケーションの楽しさを体験できる場を、年齢・性別を問わず幅広い層の人々に提供している。著書『アフリカの太鼓で踊ろう』(音楽之友社)、翻訳書としてヤヤ・ジャロ、ミッチェル・ホール著『アフリカの智慧、癒しの音〜ヒーリング・ドラム』(春秋社)。
1987年 ドラム&ダンス・カンパニー 「WALK TALK」を主宰。
1989年 音楽とダンスのフィールドワークの為、セネガル、ガンビアを訪問。
1993年 「セネガルでジンベとダンスを学ぶ為のツアー」を主催し、セネガル国営放送のTV番組に出演 。以後、毎年の訪問を続ける。
1998年 『アフリカの智慧、癒しの音〜ヒーリング・ドラム』(春秋社)出版。
2002年 「アフリカの智慧」プロジェクト(http://www.harappa-net.com/africa_no_chie/)をスタート。
2004年 アブドゥライ・ジャハテと共に、セネガル・タンバクンダにジンベとダンスを学ぶための施設「ダンバクンダ合宿所」を設立。
現在 アフリカンダンスとジンベのクラス(東京・神奈川・大阪・北海道)を開講中。詳しくは、
柳田知子 スクール・オブ・アフリカンダンス http://www.darumafunk.com/dance/ にて
(砂川正和さんのオフィシャルサイト http://www.darumafunk.com/sunagawa/)
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