(2009年11月)
■「アフリカと出会うまで」
1965年に山梨県に生まれる。
18歳の時上京して、慶應大学・法学部政治学科へ入学するが、授業を面白いとも思えず、お金を貯めては貧乏旅行をしていたそう。
あるとき、旅行中にA型肝炎を患ってしまう・・・。
しかし、鈴木さんは、果敢にも「インドへ行く」と医者に相談するが、ドクターストップがかかり、「どうしても行きたいなら、先進国ならOK」と言われ、パリに向かいます。
パリで、アフリカの音楽家たちを追っているフォトジャーナリストに出会い、同行したコンサートでパパ・ウェンバなどアフリカの音楽家と知り合いになり、彼らに興味を持ちます。
この偶然の出会いから、鈴木さんとアフリカの付き合いが始まります。
そして、鈴木さんは、実際にアフリカに行ってみたいと思いました。
■「さて、どうやってタダでアフリカに行こう?」
貧乏旅行を経験してきた鈴木さんは、アフリカへ行くために、しかもタダで行くにはどうしようか考えます。
大学の教授に相談したところ、「文化人類学者になれば、アフリカに行けるんじゃない?」と指導されます。
大学院では、社会学研究科へ進学し文化人類学を学びます。
修士課程では、リンガラ音楽の研究(ザイール:現コンゴ共和国の音楽の研究)をしたそうですが、残念ながら、この時は自費で渡航したそうです(笑)。
その後、フランス語も理解できるようになっていた鈴木さんは、外務省の専門調査員を経て、野間アジア・アフリカ奨学金を利用し、同じフランス語圏のコートジボワール共和国へ。
やっと念願かなって(?)、タダでアフリカへ行けることになったのです。
コートジボワールでは4年間、ストリートボーイの研究活動をしました。
アビジャン(コートジボワール)のストリートボーイたちと。
■「コートジボワールでの研究生活が終わって、大学の教員になる」
コートジボワールでの研究が終わって、山梨に帰ろうかと思ったが、国士舘大学で講師の募集があったそう。
鈴木さん曰く「変なことを専攻している人材を探していた」とのことで、コートジボワールでストリートボーイの研究をしていた経歴から採用されることに。
奥さんがアフリカ人(音楽家のニャマ・カンテさん)で、彼女の音楽活動のために東京がよいと思ったことも理由。
それから、早くも10数年が経ちます。
■「研究のフィールドは?」
鈴木さんは、23歳から、コートジボワールの研究(ストリートボーイの研究)を10年間。
それから、ギニアの60〜70年代の音楽を使った文化政策のことを研究。そして現在は、世界のフランス語圏に広がるマンデ(マリ帝国の末裔たち)の人びとの研究を通し、特にグリオ(音楽家)の人びとの伝統・文化・生活を研究されています。
いつでも主軸には、アフリカの音楽があります。
著書『ストリートの歌:現代アフリカの若者文化』世界思想社
■「先生と学生とのやり取り」
現在、鈴木さんは、文化人類学や比較文化論を教えています。
ビデオなどを使い、アフリカ伝統音楽や現地での結婚式の話、奴隷貿易からアメリカのブルース、ロックができた話、通過儀礼や村落のことをちりばめながら話すと熱心に聞いてくれる学生が多いそうです。
タイトル:祭りで歌うグリオ
鈴木さん「抽象的な話をすると学生は眠っちゃうから、なるべく音楽のジャンルの話とかをするの(笑)。」
鈴木さんの授業は楽しそうですね。
私も聴講したいものです。
出席者が多くて、お断りしていることもあるほどの人気だそうです。
■「学生の反応は?」
鈴木さん「アフリカ音楽の話や現地での結婚式の話など、楽しそうに聞いてくれるね。」
妻ニャマ・カンテとの結婚写真
DJをやっている大学生は、特に熱心に話を聞き、授業で使う音源やビデオのリソースについて尋ねてくることもあるそう。
ただ、アフリカに興味を持つ学生が増えているとは思えないというご意見も。
鈴木さん「授業を通しても、アフリカに興味がある人は、100人に1、2人いるくらいじゃないかなぁ?
日本社会の中で、アフリカへ割り当てられたキャパシティは何年も前からあまり変わってないと思う。
サンコンさんがゾマホンとかボビーに取って代わられるだけだよね(笑)。」
パリにいれば、アフリカの話はたくさん入ってくる。
日本とアフリカの距離が遠すぎるという点にも問題がありそうです。
奥さんもアフリカ人である鈴木さんにとって、アフリカはとっても身近なものでしょうが、鈴木先生が考えるアフリカの開発とは一体どんなことなんでしょうか。
■「アフリカにおける開発とは?」
鈴木さん「開発って工業化のこと?農業の構造を変えること?モノカルチャーからの脱却?開発とは金持ちになることなのだろうか?マーケットの開拓なのだろうか?開発には色々な意味があるよね。」
開発ということをアフリカのポジティブな変化ととらえるとどうでしょう?
鈴木さん「アフリカの多くの国は、政治体制が確立していないし、村のおばあちゃんにデモクラシーを説いても意味が通じない。
教育を施しても、それに見返りもないし、そんな中でいわゆるちゃんとした社会を作るのは不可能でしょ?
だけど、糾弾すべきはアフリカの指導者ではなくて、植民地時代に白人社会が作ったシステムだよね。
それを壊すには、先進国側も精神的なダイエットをしなきゃいけないけど、それは現実的じゃない。
だから、開発って結局、できることっていうのは、今自分ができることに責任を持って、できる範囲のことをやっていくことじゃないかな。」
なるほど、自身のできることに責任を持って、できる範囲のことをこなしていくこと。
これがとっても重要なことなんでしょうね。
その結果、ポジティブな変化が訪れたら素敵なことです。
こうした鈴木さんの人生哲学には、音楽が影響しているような気がします。
■「鈴木さんにとって音楽とは?」
ある人には、スポーツ。
ある人にはグルメ。
人それぞれ、三度の飯よりこれが好きというものがあるのかもしれませんが、鈴木さんにとってそれは、音楽だったようです。
中学生くらいの時に、洋楽のロックに出会ってから、鈴木さんの音楽遍歴が始まります。
鈴木さん「当時、ロックを聴いている人は一番偉い人だったんだよ(笑)。
大学の時に、ブルースに出会い、パリに行ったときに、アフリカの音楽に出会う。
頭の中は、常に音楽が半分以上占めているね。
アビジャンのストリートボーイを研究している時は、レゲエにはまって、ボブ・マーリーをたくさん聞いて調べたよ。」
音楽を軸に、音源を聴きあさったり、色々な文献を読みあさったりしながら、伝統や歴史、社会の現象などを理解していくのが、鈴木さんのスタンスなんですね。
そんな鈴木さん、現在はアフリカ音楽にとどまらず、クラッシックなども聴いているそうです。
アフリカ音楽やブルースのような肉体的な音楽も、クラッシックのようなシステマチックな音楽も双方に面白さがあると言います。
そんな好奇心がとどまるところを知らない鈴木さんは、今後どのような活動をされていくのでしょうか。
■「日本とアフリカの音楽的な交流」
鈴木さん「日本人でアフリカ音楽をやっている人たちが、妻のニャマ・カンテと一緒に音楽をしたりする。
日本人がアフリカ人のまねをして、アフリカ人が日本人のまねをするそんなことを通して、アフリカと日本の文化交流ができればいいよね。
この前も、ニャマ・カンテと日本のミュージシャン、アフリカンダンサーを連れて、アビジャンに行ってきたんだ。」
ニャマ・カンテさん ファーストアルバム『ヤラビ』
文化交流遠征では、現地アフリカの人々も喜んでくれたそうですよ。
まさに草の根の交流活動ですね。
その活動がどんどん広がっていくと面白いですよね。
他には何かありますか。
■「マンデ世界を俯瞰する本の執筆」
鈴木さん「もう少し勉強したい。
ストリートの音楽や、グリオの音楽をもっと知りたいね。
アフリカのことを色々本も読んで、フィールドワークもしてきたけれど、まだまだ知らないことがたくさんある。
マンデ(マリ帝国)のことをもっと知りたい。
妻もグリオの家系出身で、親戚には音楽家のモリ・カンテもいる。
マンデ世界の全体を見渡せる構図を手に入れたいな。彼らが昔ながら持っている伝統的な感覚と、現代を生きるグローバルな感覚、それを感じたい。
どうにかして、全体像をわかりたいんだけど、まだ方法が見つからないんだよね。」
奥さんとの出会いから結婚式までの話を軸に、文化人類学の本を執筆中だそうです。
出版社も決まっているそうです。
出版が楽しみですね。
でも、アフリカ時間が身についてしまって、締切を守れなくなっているみたいです(笑)。
鈴木さん「コートジボワールのことを研究していた時から10年たった今、あの時知りたかったことが分かる時がある。
考え方が整理されて理解しなおせることがあるんだよね。」
現在、執筆中の本は、鈴木先生のこれまでの研究の集大成になりそうです。
インタヴュー:前田絵里、澤柳孝浩(文)
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プロフィール:
鈴木 裕之 /すずき ひろゆき
(国士舘大学文化人類学教授) |
1965年山梨県生まれ。
慶應義塾大学大学大学院社会学研究科修了。
文化人類学専攻。
ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)での研究、外務省調査員、コートジボアール共和国での研究を経て、現在は国士舘大学で教鞭を執る。
アフリカ音楽、特にグリオの音楽への造詣が深い。
奥さんニャマ・カンテさんのウェブサイト http://members2.jcom.home.ne.jp/nyama-kante/
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