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当時17歳だったマイケル=オコット(仮名)は、全身に15の銃弾を受けたまま3週間ジャングルに放置されたが、奇跡的にその命はとりとめた。しかし、左頬から入り右眉付近に抜けた弾丸により、その両目の光は永遠に奪われ、さらに腰を貫いた銃弾は左足の自由を奪った。

「ゲリラとして戦っていたときのことは、もう考えたくないんだよ。今は一生懸命勉強して盲学校の先生になって、僕と同じように盲目で苦しんでいる人たちを助けたいんだ」

彼がLord's Resistance Army(神の抵抗軍・以下LRA)に誘拐されたのは1992年のことだった。当時7歳だった彼は、他の友人たちと一緒に学校の授業中、突然自動小銃を手に現れたLRAの兵士に拉致され、その後全身に銃弾を浴び放置されるまでの10年間、スーダン・ウガンダ国境を行き来しながらブッシュで寝起きし、銃を手にウガンダ政府軍と戦ってきた。

「UPDF(ウガンダ政府軍)をナイル川のほとりで待ち伏せする作戦だった。戦闘自体はLRAの勝利だったけど、僕は運悪く撃たれてしまったんだ。あまりの痛みに気絶してしまったみたいで、気がついた時には誰もいなかった。みんなその傷を見て助からないと思ったんだろうね」

UPDFの斥候が偶然彼を発見するまでの3週間、マイケルは幸い近くにナイル川があったため水を得ることができ、木の根や草を食べて生き延びた。

モーセの十戒による国家再建を謳うLRAがウガンダ北部の町や村で、略奪と子供の誘拐を始めたのは1980年半ばのことだった。

1894年にイギリスの保護領となり1962年に独立したウガンダは、かのチャーチルが「アフリカの真珠」と感嘆したほど緑が多く、非常に美しい国だった。しかし多民族国家である同国は、1966年、当時首相だったオボテがクーデターで政権を奪って以来、現在までのわずか41年間で5度も軍事力による政権移行が起こっている。

なかでも数十万人を虐殺し「食人大統領アミン」として映画にもなったアミン大統領は有名だ。1971年、軍事クーデターを起こしオボテから政権を奪取した。そしてその後インド人を中心とするアジア人を数万人国外追放にし、外国資本企業を突如国営化し、政敵・反乱分子を次々と暗殺・殺害するなど悪名高い恐怖政治を行い、さらに1976年に起きたエールフランス機ハイジャック事件で、ウガンダのエンテベ空港に着陸し、イスラエル人だけを機内に残し立てこもるハイジャック犯をウガンダ政府軍に警護させ国際社会を唖然とさせた。(イスラム教徒だったアミンは、その後サウジアラビアに亡命したが昨年死亡した)

1978年にそのアミンを倒したのは、彼の粛清を恐れタンザニア逃れていた人々が結成したUNLF(ウガンダ国民解放戦線)だった。その後の政権も1980年、1985年と続けざまにクーデターが起こり長続きしなかったが、1986年、現大統領であるNRM(国民抵抗運動)のムセベニが大統領に就任し、一応の収束を迎えた。そして前政権の残党が、中央を追われた後もその基盤である北部地域を拠点にゲリラ活動を続け、紆余曲折を経てLRAとなったのである。

ウガンダ軍広報官のレオナルド氏によると、現在までにグル地区だけで2万人近くの住民が殺害され、2万6千人以上の子供が誘拐され、30万人近い避難民が出ているという。

「私は10歳の時に誘拐されたわ。一度は逃亡に成功したんだけど、すぐに見つかってしまって、見せしめのために銃で撃たれたの」と、わき腹の傷を見せてくれたのは2人の子供の手を引いたウェンディー(仮名・20歳)だった

彼女は1992年8月の正午

過ぎ小学校にて誘拐され、スーダンに連行された。そして40歳のすでに2人の妻を持つ司令官と12歳の時に結婚させられ、14歳で一人目の子供を出産したという。

「ブッシュの中での出産は大変だったわ。薬や医療品なんてもちろんないし、いつも水も食べ物も不足してたから母乳もなかなか出ないの。たとえ出産直後だろうと、行軍に遅れたら脱走兵として処刑されてるから、赤ん坊をおぶったまま一日に何十キロも歩かないといけないのよ。もちろん戦闘が始まれば、そのまま戦わなくてはならなかったわ」

1988年に二人目の子供を出産した彼女は、長男の手を引き、長女を背中に背負い、AK-47を手に戦闘に参加した。

「確実に何人かは殺したと思う…。はっきりと相手の顔は覚えてるわ。でも戦わないと、この子たちが死んでしまうもの」

ウェンディーが手にして戦ったAK-47は、スーダン政府の支給品だったという。ウガンダ政府・LRA・スーダンの関係は「敵の敵は味方」という論理で成り立っていた。イスラム国家スーダンはウガンダと国境を接する南部にキリスト教徒主体のSPLA(スーダン人民解放軍)というゲリラを抱えている。現スーダン政府を快く思っていなかったアメリカの意を受け、ウガンダはそのSPLAを支援していため、スーダン政府は対抗すべくゲリラであるLRAに対し武器・弾薬・資金などの援助をしていたのだ。

ところが2002年、ウガンダ政府とスーダン政府が和解し、長年続いてきたその歪んだ関係に終止符が打たれた。そして「お互いの反政府ゲリラに対する支援を即刻打ち切り、共同戦線をはる」との協定が結ばれ、その直後の3月、ウガンダ政府はスーダン政府の許可を得てスーダン領内にも軍を駐留させ、「IRON FIST(鉄の拳)」と名づけられたLRA殲滅作戦を開始した。

「IRON FIST」作戦に対するムセベニ大統領の意気込みは大きく、アメリカ政府にテロリストであると名指しされたLRAのリーダーであるジョゼフ=コニーに対して1万1千USjの懸賞金を懸け、自身も前線であるグル県に半年近く逗留するなど、本腰を入れてLRAをつぶしにかかっていた。また「テロリストを世界から一掃する」その名目で、アメリカ政府も2002年12月上旬3百万USjの援助を決定した。

「IRON FIST作戦はすでに80%が完了した。3千人以上いたLRAの兵士はすでに千人以下になり、チャイルドソルジャーの救出も順調に進んでいる」

とウガンダ政府軍は発表しているが、今年2月下旬、リラ地区のバルリョノ村が焼き討ちにあい259人が死亡するなど、残念ながら未だウガンダ北部地域ではLRAによる襲撃や誘拐が頻発し、決して安全とはいえない。

さらにLRAの襲撃を恐れる1万人近くの「ナイトコミューター」と呼ばれる子どもたちが、周辺の村やIDP(Internally Displaced Persons・国内避難民)キャンプから、ぞろぞろと日暮れとともにグルの町中に毎日避難しており、子どもたちの健康や安全が脅かされるため、こちらも大きな問題になっている。

さらに問題なのは、誘拐され兵士として育てられた子供たちのその後だ。

18歳のドロシー(仮名)は1996年1月、友人5人と学校からの帰り道に誘拐され、ウェンディー同様40代の指揮官と強制的に結婚させられ、一昨年6月開放された。小柄でシャイな彼女にインタビュー中、「ゲリラの生活で一番辛かったことはなに?」と質問した時、突然目の色が変わり、乱暴に子どもを抱き寄せ彼女は「もし、あいつとまた会うことがあったら、何があっても絶対に殺してやるわ!」と語気荒く吐き捨てると、カメラの前で照れ笑いをしていた表情が一変した。

「絶対に殺す」と人前で口にするほどドロシーが憎んでいるのは、同時に彼女と誘拐された同級生だという。

「私たち5人は、とても仲の良い友達だったわ。だから誘拐されてからも、いつか逃げ出せる日がくるはずだからと、お互いに励ましてあって頑張っていたの。そしてあの日、やっとそのチャンスが来たのよ。極端な水不足で、私たち5人は部隊から20キロも離れた川まで水を汲みに行かされることになったの。みんなでどうやって逃げるか、前日にそっと話し合ったわ。そしてその当日、計画通り水を汲みに行くふりをして、容器の中に少しの食料を入れて部隊を出ようとしたの。そしたら突然兵士がすごい力でその容器を奪い取って中を覗いて、ニヤッと笑ったのよ。その瞬間私たちは辺りにいた兵士たちに蹴り倒され司令官の前に突き出されたわ。あいつを除いてね……。あいつが私たちを売ったのよ!」

ドロシーの同級生は2人がその場で銃殺され、ドロシーと残りの一人はドロシーの夫である指揮官の計らいにより、ムチ打ち6時間の刑に減刑された。

「あいつはムチでぶたれる私を冷たい目でじっと見ていたわ。あの目…、絶対に忘れない!」

敵と遭遇しても怯むことのないようにと麻薬づけにされた体。逃亡防止のため、自分の村に連れて行かれ、強要されて犯した隣人殺し。LRAへの恐怖心を植えつけるための、見せしめ処刑。ドロシーの例は極端だが、子供たちの心に巣食うトラウマは深刻だ。

LRAから逃れてきた子供たちが最初に収容され、事情聴取と簡単な健康診断・治療を行うCPU(Child Protection Unit)と呼ばれる場所を訪れると、まず子どもたちの表情に驚かされる。

つい先日まで銃を手に戦っていた少年の目は鈍くよどみ、少女ははるか遠くにぼんやりとした視線を投げかけているだけで、数十人が同じ庭にいても、声ひとつ聞こえないのだ。その生気のない姿は、ありきたりな言葉だが「生ける屍」としか表現しようがない。

幸い国際NGOの「ワールドビジョン」と地元NGO「GOSCO(Gulu Support for Children Organization)」が、ゲリラから救出された子供の社会復帰を助けるため活動をしており、専門家が誘拐時に受けたトラウマのカウンセリングや、自立した生活を送られるようにと洋裁や木工などの技術を教えている。

「どの子供もここに来た当初は、目が死んでいて何もやる気がないんですよ。なかには夜になると突然叫び出したり、狂ったように暴れたりする子もいます。でもカウンセリングを何回か受けると、少しずつ自分を取り戻し始めて、早ければ数週間、遅くても数ヶ月で普通に生活が送られるようになりますね。でもこの子たちの受けた精神的苦痛はとてもひどいので、ふとした拍子に過去に戻ってしまうこともあります。それでも私たちは、この子たちの回復力と心の強さを信じています」

NGOの副代表を務め看護婦でもあるマーティンさんは、元気良く走り回る子供たちに囲まれながら、力強くそう語った。

なぜ子供を兵士にする必要があるのかというと、子供は大人と比較すると思想の刷り込みがたやすく、脅しにも弱い。さらに近年軽火器の軽量化が進み子供の力でも十分扱えるようになったため、兵力不足に悩む軍やゲリラにとっては格好の兵士となるのである。

「お母さんが危篤だから、あした村に帰るんだ」 冒頭に紹介した、全身に15箇所の銃弾を受けたマイケル=オコットは、前回私がグルを離れる日、突然そう切り出した。グルの町から25キロ離れた彼の故郷近辺は政府軍の勢力外であり、今も当時も、いつLRAに襲われてもおかしくない状況である。その場にいた誰もが口々にマイケルを止めた。でも彼が誘拐された時、母親を除き全員がLRAに殺害された彼の意思は固かった。

「危ないのは分かってる。でも、僕に残されたたった一人の家族だから…。そう、インタビューの時言い忘れたけど、僕はもう一つ夢があるんだ。もし結婚できたら、たくさんたくさん子供を作って、にぎやかな大家族を作りたいんだ!」

何も見えていないはずの彼の目には、CPUで見た子供たちよりも遥かに強い光が宿っていた。私は彼の強さに感動し、しかし、今年再びグルを訪れた私を待っていたのは、「あの後、マイケルの行方は分からない…」という無情な現実だった。

第二次世界大戦後規定されたジュネーブ協定により「15歳以下の子供の徴兵」が禁止されていたが、抜け道が多すぎたため国際社会は2002年2月「18歳以下の子供を徴兵禁止(15歳以上の自発的な入隊は除く)」とする「子供の権利条約」を発行した。だが依然として銃を手に戦っている子供たちの数は、現在も世界に30万人以上いるといわれている。

写真・文:下村靖樹
フォトジャーナリストの下村さんは、アフリカのグレートレイクス・リジョンを中心に、子ども兵士・ルワンダ内戦・ソマリア内戦・エボラ出血・HIV&エイズ・マウンテンゴリアなどを取材する、という危険と向かい合わせのお仕事をしています。
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